1. シンガポールにおけるNDAとLaw of Confidence
1.1 日本法と異なる秘密情報の保護枠組み
日本では、秘密管理性、有用性および非公知性を満たす営業秘密は不正競争防止法により保護されます。一方、コモン・ロー(判例の蓄積によって法が形成される英米法系の法体系)法域であるシンガポールに営業秘密を包括的に定める制定法はなく、秘密情報はNDAに基づく契約上の義務とコモン・ローにおける「Law of Confidence」によって保護されます。そのため、1. Law of Confidenceによる保護」と2. NDAによる保護とを区別して理解する必要があります。
1.2 Law of Confidenceによる保護
Law of Confidenceは、秘密として情報を受領した者の「良心(conscience)」に義務を課す衡平法(こうへいほう:コモン・ロー法域において判例法を補完する形で発展してきた法体系のこと)上の考え方に基づくコモン・ロー上の法理です。シンガポール知的財産庁(IPOS)のTrade Secrets Enterprise Guide(以下「IPOSガイド」)も、同国では秘密情報が主としてこの法理により保護されるとしています。同ガイドによれば、保護が認められるには、以下の3つの要件を満たす必要があります。
情報が「秘密性」を有すること
受領者が「秘密保持義務」を負う状況で提供されたこと
その義務への「違反」があったことを示すこと
1.の「秘密性」は、情報の性質、第三者への開示の有無および態様、オンラインでの入手可能性、保護のために講じた措置などを総合して判断されます。
2.の「秘密保持義務」について、同ガイドは、義務が生じる経路として契約と衡平法の二つを挙げています。契約については、NDAで相手方に秘密保持義務を負わせればこの要件を満たします。また、衡平法上は、受領者が秘密として扱うべきことを知り、または知り得た場合に義務が認められ、その判断は、受領者の主観ではなく、提供・取得時の状況に照らした客観的な観点によるとされています。この様に、契約上の義務が課せられていない場合でも衡平法の法理によって、Law of Confidenceに基づく保護が及び得ることとなります。
3.の「違反」は、秘密情報が使用または開示された場合が典型例となります。もっとも同ガイドは、無断で取得されたにとどまる場合も、情報を瞬時に複製・拡散できる現在では秘密性が失われる恐れがあるとして、この要件を満たし得るとしています。この場合、義務違反が推定され、取得者が、その取得は自らの良心に反しなかったこと(偶然の発見、秘密性の不知など)を示さない限り、覆らないとされています。
2. シンガポール法を準拠法とするNDAの一般的な規定と違反時の救済
上記のとおりLaw of Confidenceによる保護は期待できるものの、この法理による場合、情報の秘密性や受領者が秘密保持義務を負っていたことの立証責任を裁判の場で負い、この点に争いが生じ得ます。そのため実務上は、事前にNDAを締結しておくことが一般的です。NDAに設ける規定自体はシンガポールだからといって他国と決定的に異なるわけではありませんが、重要な項目については、同国の裁判所の判断を踏まえ、どのような規定が一般的かを確認しておくことには意義があるものと考えます。なお、NDAを締結してもLaw of Confidenceによる保護が当然に失われるわけではなく、両者に基づく請求が併存し得ます。もっとも、契約による保護とLaw of Confidenceによる保護は、立証の負担も異なるため、必要な保護はNDAに書き込んでおくことが基本となります。
2.1 秘密情報の範囲
秘密情報の範囲を「開示者が開示する一切の情報」などと抽象的に定義すると、保護の対象に含まれるかが争われ得ます。技術情報や顧客情報を例示し、口頭開示や分析資料を含めるかを明確にしたうえで、公知情報や独自開発情報の除外も確認することが重要となります。
2.2 秘密情報の利用目的
利用目的も具体的に定める必要があります。抽象的または過度に広範であると、開示者が想定しない利用も許容されていると主張されかねません。シンガポール控訴院も、秘密保持義務の有無および範囲は契約文言の解釈によるとしたうえで、提供を受けた目的以外での使用は義務違反に当たるとしています。例えばM&Aの検討のための開示では、「事業上の目的」ではなく「本件取引の評価、検討、交渉及び実行のため」などと定めることが考えられます。
2.3 秘密情報の開示先・強制開示
開示先は、利用目的の達成に必要な関係会社、役職員および専門家に限定し、その秘密保持義務と受領者の責任を明確にすることが重要となります。また、法令や規制当局の命令等による強制開示に備え、許される範囲で開示者に事前通知し、必要最小限の範囲に限る旨の例外も定めることも同様となります。
2.4 契約終了後の義務
契約の有効期間と、秘密保持義務および目的外利用禁止義務が契約終了後も存続する期間は区別して定めることが重要となります。併せて、契約終了時または請求時の返還・削除義務を定め、法令上保存が必要な資料やバックアップを例外としつつ、保存中も秘密保持義務を適用する規定を置くことが一般的です。
2.5 損害賠償
損害賠償では、損失と違反との因果関係の立証が必要で、賠償の対象は因果関係が認められる損失に限定されています。開示の相手方と内容を記録し、NDAに違反の通知および調査協力を定めることが考えられますが、立証が容易でない点は否定できません。そこで予定損害賠償を定めることも考えられますが、これは、損害の真正な事前見積りと認められる限りで効力を有し、違反の抑止を目的とする制裁と評価される場合には執行を拒絶され得ます。
2.6 秘密情報の流出に対する差止め
秘密情報は一度開示されると原状回復が困難なため、開示または利用が差し迫っている場合には暫定的差止めが最も重要な救済手段となります。シンガポールにおいては裁判所が緊急と認める場合、訴訟提起前の申立てが可能で、事前通知なしに申し立てることもできます。
3. 第三国企業間のNDAの紛争解決条項でSIACを選択するメリット
国際取引では、準拠法をシンガポール法とし、紛争解決機関としてシンガポール国際仲裁センター(以下「SIAC」)を指定することは、シンガポール企業が当事者でない場合にも広く行われています。この場合、シンガポール企業間のNDAとは異なる観点からの注意が必要です。
3.1 第三国企業間のNDAの紛争解決機関で仲裁を選択するメリット
まず、仲裁手続きは、公開の法廷で行われる裁判と異なり手続きの秘密性が確保されるため、NDA違反を問う場としては裁判所よりもその性質に即しています。また、外国裁判所の判決も、二国間・多国間の条約や執行地国の国内法(相互保証の要件等)に基づき承認・執行され得ますが、その枠組みは国・地域によって異なります。これに対し、仲裁判断については、ニューヨーク条約という広範な多国間条約に基づく承認・執行の枠組みが存在し、同条約には172カ国が加盟しています。このため国際的な契約では、公平性の観点から準拠法および紛争解決機関を第三国のものとすることが一般に行われています。
3.2 SIACを仲裁機関として指定する意義
国際的な仲裁機関は多く存在しますが、中でもSIACは、いずれの当事者の本国からも中立な場で公平な手続きが期待できる機関として、アジアを中心に多くの国際契約で指定されています。後述のとおり、2025年の規則改定により、NDA違反への対処として取り得る手段も拡充されています。
3.3 2025年SIAC仲裁規則の改定―簡易手続・迅速手続
仲裁手続きでは仲裁人報酬等も当事者が負担するため費用がかかり、仲裁人の選定にも期間を要します。そのため、現に秘密情報が漏えいし、その価値の毀損が生じている局面では、打ちたい手立てと実際に打てる手立てとが乖離するという問題が生じます。
この点SIACでは、2025年のSIAC仲裁規則の改定により、こうした局面で打てる手立てが拡充されています。第一に、簡易手続(Streamlined Procedure)が新設され、請求額SGD100万以下の紛争につき、単独仲裁人が書面のみで審理し、仲裁廷の成立から3カ月以内に仲裁判断を行います。第二に、迅速手続(Expedited Procedure)の対象が、請求額SGD600万以下からSGD1,000万以下に拡大され、仲裁廷の成立から6カ月以内に、原則として書面により審理されます。
3.4 仲裁と調停の組合せ―Arb-Med-Arb(AMA)
仲裁と調停を組み合わせる手続きとして、SIACとシンガポール国際調停センター(SIMC)が提供するArb-Med-Arb(以下「AMA」)があります。AMAは仲裁廷が当事者に和解の可能性を検討させ、必要に応じて手続きを一時停止して調停に移行することができる制度となり、対立的な手続きに直ちに頼らず、協調的な解決と関係の維持の機会を与えることを主眼とします。SIAC仲裁の開始後、当事者の合意により手続きを一時停止して調停に移行し、和解が成立すれば、仲裁人がその内容を同意仲裁判断として発行します。NDA違反の事案では、秘密情報の返還、記録の削除、利用の停止および金銭的補償などを早期かつ柔軟に合意でき、紛争の顕在化を避けたい企業にも適します。
3.5 緊急仲裁人による緊急の差止め
秘密情報の開示が現実に行われ、直ちに差止めが必要となる局面では、より迅速に差し止めが必要となる事例もあります。この場合に利用できるのが緊急仲裁人の制度です。SIAC規則は、仲裁廷成立前の緊急仲裁人制度を定めており、仲裁通知(Notice of Arbitration)の提出と同時、またはその前に選任を申し立てられます。仲裁廷の成立後は、仲裁廷自身が暫定措置を命じることができます。また同規則は、資産の隠匿や証拠の改ざん等のリスクに関し、緊急仲裁人の選任を求める申立てについて相手方に通知することなく、申し立てられた緊急の暫定措置または保全措置の目的を妨げる行為をしてはならない旨を相手方に命じる保護的予備命令(Protective Preliminary Order。以下「PPO」)の制度も設けています。
3.6 相手方所在国の裁判所を通じた暫定措置の申立て
さらに迅速な対応が必要な局面では、相手方企業の所在国の仲裁法によっては、直接、相手国の裁判所に暫定措置を申し立てることも考えられます。多くの国の仲裁法は、仲裁合意があることは裁判所への暫定措置の申立てを当然には妨げない旨を定めています。これは、多くの国がUNCITRAL国際商事仲裁モデル法(以下「モデル法」。執筆時点で93カ国・127法域)を採用しているためで、2006年改正で追加された第17J条は、裁判所が、仲裁地を問わず、訴訟手続きにおけるのと同一の暫定措置を発する権限を有するとしています。シンガポールでも国際仲裁法第12A条が同旨を定めています。
4. SIACの限界と紛争解決地の選択
他方、前章で紹介した手段が常に機能するとは限りません。以下では、仲裁判断の執行、緊急仲裁人による暫定措置の執行、および相手方所在国の裁判所による暫定措置の順に、実務において留意すべき限界を整理します。
4.1 仲裁判断の執行には執行地国での手続きを要すること
仲裁判断は、相手方所在国がニューヨーク条約の締約国であることをもって自動的に執行されるわけではありません。執行地国の国内法に基づく承認・執行の手続きを要し、同条約第5条も拒否事由を定めています。例えば、執行地国の公序(public policy)に反すると判断されれば、同条約の下でも執行が拒否され得ます。
4.2 緊急仲裁人による暫定措置の執行可能性
緊急仲裁人による判断についても、ニューヨーク条約に基づく承認・執行が当然に認められるわけではありません。同条約が主に対象とするのは最終的な仲裁判断であり、UNCITRALのモデル法にも緊急仲裁人に関する規定は置かれていません。そのため、緊急仲裁人の命令等を執行できるかは、執行地国の仲裁法および裁判所の判断に委ねられる可能性があります。シンガポールでは、国際仲裁法が「仲裁廷」の定義に緊急仲裁人を含め(第2条(1))、その命令を裁判所の許可を得て執行し得るとしていますが(第12条(6))、これは同国独自の規定であり、相手方所在国に同様の手当てがあるとは限りません。
4.3 相手方所在国の裁判所による暫定措置とモデル法の採用状況
相手方所在国の裁判所による暫定措置も、モデル法を採用していない国では、第17J条に相当する規定がなく、得られるとは限りません。UNCITRALの採用状況一覧では、ASEAN諸国のうちインドネシアやベトナム等が掲載されておらず、特に注意を要します。また、モデル法を採用したと掲載されている国でも、実際は第17J条に相当する規定がないことがあるため、個別の確認が必要です。
4.4 それでもSIAC仲裁が選ばれる理由
以上の限界を踏まえると、相手方所在国の裁判所または現地の仲裁機関を選ぶことも選択肢となります。もっとも、法域によっては、裁判官や仲裁人の公平性、司法の透明性や独立性、さらには汚職について懸念が指摘されることがあり、このため、SIAC仲裁が選ばれることが多々あります。この背景としては、相手方所在国の司法制度の公平性・透明性・独立性等に対する懸念を回避し、中立的な第三国で紛争解決を行う点があると考えられます。また、外国仲裁であれば、ニューヨーク条約という共通の枠組みの下で執行を求めることができ、加えてSIACでは、中立性・公平性に加え、手続きを迅速化する仕組みが設けられている点も要因といえます。
「LegalOn」でシンガポール法準拠のNDA審査を効率化
「LegalOn」は、シンガポール法に準拠したNDAのAI審査にも対応しています。シンガポールに拠点を持つ企業や、シンガポール企業との取引・協業を行う日本企業の法務担当者方においては、AIベースの法務体制を構築しながら、ワンストップで海外への対応体制も整備できるサービスです。興味のある方は、ぜひ以下より詳細をご確認ください。
5. おわりに
本記事では、シンガポール法を準拠法とする場合のLaw of Confidence等による保護と、裁判例を踏まえたNDA締結時の留意点を整理し、第三国企業間の契約でSIACを仲裁機関とする場合のメリットおよびデメリットを踏まえつつ、それでもSIACが選ばれる理由を検討しました。実際の締結に当たっては、やり取りする情報の内容や性質、相手方企業の所在国に応じ、どのような規定を設けるかを個別に検討する必要があります。
(本記事は一般的な情報提供を目的としたものであり、個別の法的助言に代わるものではありません。具体的な対応にあたっては、シンガポール法弁護士・専門家にご確認ください。)
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