1. 雇用条例が定める最低基準―まず確認すべき「土台」
香港雇用条例上、雇用契約は書面によることが法律上必須とされておらず、口頭の合意でも有効に成立します。もっとも、条件の立証や、後述する競業避止条項のように「明示の合意」が要求される事項があることに鑑みれば、書面化は実務上ほぼ必須と考えるべきです。継続雇用契約に該当するための要件は、従来は4週間について毎週18時間以上就労すること(いわゆる「4-18」ルール)とされていましたが、2026年1月18日施行の雇用(修正)条例2025により、
① 4週間について毎週17時間以上働く場合
または
② 4週間の合計就労時間が68時間以上に達する場合(いわゆる「4-68」ルール)
のいずれかを満たせば足りることとなりました。
継続雇用契約に該当する従業員に対しては、解雇予告期間(契約に定めがない場合、試用期間開始から1カ月経過後は7日以上、試用期間経過後は1カ月以上)、法定休日、年次有給休暇、疾病手当、出産・父親休暇、2年以上の継続雇用を前提とする遣散費、5年以上の場合の長期服務金、そして強制積立年金(MPF、労使双方が原則として賃金の5%を拠出)への加入義務などの最低基準が定められています。
なお、2025年5月1日以降に発生した雇用期間に対応する解雇補償金(2年以上継続雇用された従業員が、整理解雇(redundancy)等により離職する場合に支給されるもの)・長期服務金(5年以上継続雇用された従業員が、整理解雇以外の事由(定年等)により離職する場合に支給されるもの)については、使用者がMPF拠出分をもってこれを相殺(オフセット)する制度が廃止されており(同日より前の期間分については経過措置により相殺が可能です)、賃金・在籍期間から機械的に金額を算出する際は、この相殺廃止を踏まえた再計算が必要です。これらは強行法規であり、審査の第一歩は契約書がこれらの法定最低基準を満たしているかの機械的なチェックです。
2. 競業避止・秘密保持条項―「取引制限の法理」という土俵
雇用条例がカバーしない条項で実務上重要な条項として、退職後も従業員を拘束する競業避止・秘密保持・勧誘禁止条項などが挙げられます。これらはコモンロー上の取引制限の法理(restraint of trade doctrine)により規律され、原則として無効という前提から出発します。使用者がこの原則を覆すには、
保護に値する正当な利益(営業秘密、顧客との関係、労働力の安定等の「トレード・コネクション」)が存在すること
当該利益の保護に合理的に必要な範囲(期間・地理的範囲・対象業務)にとどまること
公共の利益に反しないこと
の三点を、使用者側が立証しなければなりません(貴族院(House of Lords)判決であるNordenfelt v Maxim Nordenfelt Guns and Ammunition Co Ltd [1894] AC 535, 565におけるLord Macnaghtenの法廷意見に遡る古典的な定式化です。同卿は、取引制限が正当化されるのは、それが「当事者の利益に照らして合理的であり、かつ公共の利益に照らして合理的である場合(reasonable...in reference to the interests of the parties concerned and reasonable in reference to the interests of the public)」に限られると判示しました。この定式化は、香港を含むコモンウェルス諸法域において今日でもrestraint of trade doctrineの出発点として引用され続けています)。もっとも、実務上の主戦場となるのは1.および2.であり、3.の公共の利益要件が独立して結論を左右する事案は多くありません。また、reasonablenessは当該条項が合意された時点を基準として判断されるのが原則であり、締結後に実際に生じた競業行為の態様等によって遡って評価が変わるものではありません。もっとも、締結後の昇進や職務内容の拡大など、当事者が締結時に合理的に想定していた事情を明らかにする限度で、締結後の事実が参酌されることはあります。裁判所は明示的に合意された条項のみを審査対象とし、黙示の競業避止義務を認めることはありません。日本の裁判例が要求する代償措置の有無等の考慮要素と表面上は似ていますが、香港では制定法の後ろ盾が一切なく、条項の文言そのものの精緻さが結果を直接左右する点が根本的に異なります。近時の裁判例でも、世界規模かつ長期間(例えば12カ月)の競業避止条項について、対象事業の実態と乖離しているとして執行に消極的な判断を示す傾向がみられ、期間・地理的範囲は当該従業員が実際に接し得た市場・顧客の範囲に厳密に対応させて設計する必要があります。曖昧または過度に広範な条項は部分的な削除(blue pencil)による是正すら認められないことが多く、条項全体が無効とされるリスクがあります。
3. エクイティー上の救済―差止命令・違約金・判例法理
香港では、競業避止・秘密保持義務の履行確保は損害賠償もさることながら、エクイティー上の差止命令(injunction)によって図られるのが実務上の中心です。退職直後に競合他社で就業を開始しようとする元従業員に対する暫定的差止命令や、営業秘密の不正使用により得た先行者利益を無効化するスプリングボード法理は、日本の実務にはほぼ存在しない発想です。同法理は、Terrapin Ltd v Builders' Supply Co (Hayes) Ltd [1967] RPC 375においてRoxburgh判事が示した「秘密情報を取得した者は、これを開示者に不利益な活動のための跳躍台(springboard)として利用することは許されない」との考え方に由来し、不正取得した秘密情報によって得た時間的な先行者利益(head start)を無効化するための差止命令として発展してきたものです。当該情報が事後的に公知となった場合でも、不正取得によって得た先行利益自体は当然には消滅しないため、救済の必要性は残るとされています。もっとも、香港の裁判所はスプリングボード差止命令を安易には認めておらず、適切に起草された競業避止条項に代わる救済として用いることはできないとして請求を退けた例もあります(McLarens Hong Kong Ltd v Poon Chi Fai Corey [2019] 3 HKLRD 403)。スプリングボード法理はあくまで補完的な救済であり、実効性のある競業避止・秘密保持条項をあらかじめ契約書上に整備しておくことが前提となる点に注意が必要です。また、退職予告期間中に自宅待機とし業務・情報アクセスから隔離する「ガーデンリーブ(garden leave)」条項も、事後的な競業避止条項より裁判所に受け入れられやすい実務上の代替・補完策として広く用いられています。
差止命令に加え、条項違反による損害額をあらかじめ合意しておく違約金条項(liquidated damages clause)を設ける例もみられます。もっとも、香港の裁判所は英国最高裁判決Cavendish Square Holding BV v Makdessiが示した現代的アプローチを採用しており(Law Ting Pong Secondary School v Chen Wai Wah [2021] HKCA 873)、当該条項が正当な利益の保護に見合わない過大な金額を定めている場合には、無効な違約罰(penalty)として執行を拒まれるリスクがあります。違約金額は、想定される実損害と均衡のとれた水準に設定されているかを確認する必要があります。香港子会社の雇用契約を審査する際は、契約書の文言だけでなく、実際に迅速な差止命令を得るための証拠(秘密情報の特定、アクセス記録等)を保全できる社内体制になっているかも合わせて確認すべきです。
なお、以上はいずれも、競業避止条項が契約書上に明示的に定められていることを前提とした議論である点に留意が必要です。そのような条項が存在しない場合、大原則として、退職した従業員には自由に競業する権利があり、スプリングボード法理やガーデンリーブといった上記の判例法理のみに依拠して競業行為の差止めを実現することは至難であるといえます。
4. 見落とされがちな急所―「約因」の欠如とDeed(捺印証書)の活用
実務上もっとも見落とされやすいのが、契約の締結方法そのものに関わる問題です。入社時に締結する雇用契約自体は、労務提供と賃金という約因が最初から存在するため、通常の単純契約(simple contract)としても有効に成立し得ます。もっとも実務上は、競業避止・秘密保持条項を含む部分について、入社当初からこれを捺印証書(Deed)の形式で締結する例が広く見られます。これは、当該条項がオファーレターや雇用契約書本体とは別の誓約書・合意書として取り交わされることも少なくなく、その場合に本体契約の対価(賃金)が当該別書面上の条項の約因として当然に及ぶかという解釈上の疑義をあらかじめ遮断できること、捺印証書は約因の有無にかかわらず有効に成立すること、および単純契約の出訴期限が6年であるのに対し捺印証書はより長期にわたり執行可能であることによります。したがって、Deedによる締結は、既存従業員に対する条項の追加・強化の場面に限らず、入社時点から採用すべき実務対応として理解しておくべきです。
既に在職中の従業員に対して、後から競業避止条項や秘密保持条項を新設・強化する場合には、この問題がより先鋭化します。香港の裁判所は、既存の契約を従業員に不利益な方向へ変更する場合、使用者が従業員に新たな「現実の対価・便益(real benefit)」を与えていない限り、その変更は約因を欠き拘束力を持たないという立場を取ります。単なる雇用継続の約束や将来的な役職上の期待といった程度では、十分な約因とは認められないおそれがあります(約因法理の権威ある先例として、香港発祥の枢密院(Privy Council)判決であるPao On v Lau Yiu Long [1979] UKPC 17, [1980] AC 614が広く引用されます。同判決は、既に第三者に対して負っている義務を履行する旨の約束であっても、当事者が対等な立場で交渉し、対価の授受が予定されていたと認められるといった限定的な場合においては、新たな約束に対する有効な約因となり得ると判示しました)。このような場面では、Deedによる締結は単なる推奨にとどまらず、約因不存在のリスクを回避するための実務上の要請となります。
捺印証書の執行方式は、香港土地・財産処分条例(Conveyancing and Property Ordinance, Cap. 219)19条に明文の規定があります。個人による署名の場合、同条(1)項が要求するのは本人による署名(sign)のみであり、立会人によるattestationは法律上の要件ではありません。同条(2)項は、書面がDeedである旨を明示する、捺印(seal)された旨を記載する、または捺印を表す印影・マークを付すといった事実があれば、捺印がされたものと推定するにとどまります。もっとも、捺印証書として効力を生じるには署名に加え交付(delivery)を要する点は変わらず、これらの方式を満たせば、約因の存在にかかわらず有効に成立します*。もっとも、通常の雇用契約とは異なる形式的な書面に従業員の署名を得ること自体への心理的抵抗から、現場での運用が難航する例も報告されています。実務的には、Deedによる締結と、昇給・一時金・追加休暇といった現実の対価を新たに提供する方法の双方を比較し、当該従業員との関係でどちらが現実的かを個別に判断することが望ましいといえます。なお、この論点は退職合意書(settlement agreement)において新たな秘密保持義務を課す場面でも同様に問題となる点に留意が必要です。なお、雇用契約に付随する捺印証書について、契約当事者である法人側の執行方式は、当該法人の設立地によって整理されます。香港設立の会社であれば、会社条例(Companies Ordinance, Cap. 622)第127条・第128条に基づき、取締役の署名のみで(共通印を用いずに)締結するのが実務上の原則です。他方、日本本社のような香港会社条例の適用対象外の外国法人が当事者となる場合には、Cap. 219第20条の捺印・attestationによる執行推定規定が主に問題となります。もっとも、雇用契約に付随するDeedについて実務上いずれの方式が採られているかを示す確立した先例までは確認できておらず、この点は個別に現地弁護士に確認すべき論点として残ります。
* 実務上の留意点として、捺印証書の署名ページ(signature page)を、当初の草案から差し替え後の最終版に転用することは避けるべきである。署名および立会人による署名(attestation)は、現に締結される最終版の書面と物理的に一体のものでなければならず、これを欠く場合には有効な執行として認められないおそれがある(Mercury Tax Group Ltd v HMRC [2008] EWHC 2721 (Admin))。捺印証書に限らず、複数当事者による署名を後から一つの書面に合成する実務(いわゆるsignature page方式)一般に妥当し得る注意点である。
5. 日本企業のための実務チェックリスト
香港子会社の雇用契約、特に競業避止・秘密保持条項を含む契約を日本本社の法務担当者がレビューする際は、以下の点を確認することが推奨されます。
第一に、条項が保護する利益(営業秘密、顧客関係、労働力の安定等)を具体的に特定できているか。
第二に、制限期間・地理的範囲・対象業務が当該従業員の役職やアクセス可能な情報に照らして必要最小限といえるか。
第三に、競業避止・秘密保持条項が捺印証書(Deed)の形式で締結されているか。入社時点から含まれている場合であっても実務上はDeedによる締結が推奨され、在職中に追加・強化されたものである場合には、約因の有無またはDeedによる締結の有無を必ず確認する必要があります。
第四に、秘密情報の範囲が過度に包括的になっていないか(「業務上知り得た一切の情報」といった定義は無効リスクを高めます)。
第五に、違約金条項が定められている場合、その金額が想定される実損害と均衡が取れているか(過大な場合は違約罰として無効となるリスクがあります)。
第六に、Deedとして締結する場合の署名方式が適切か。香港法上、(実務上は立会人(witness)を依頼する様式が多くみられるものの)個人による捺印証書の署名について立会人によるattestationは法律上必須ではなく(Cap. 219 第19条)、本人の署名のみで有効です。もっとも、契約の相手方が法人となる場合、当該法人が香港設立会社であれば、会社条例(Companies Ordinance, Cap. 622)第127条・第128条に基づき、取締役2名、または取締役1名およびCompany Secretary(単一取締役会社の場合は当該取締役単独)の署名により、共通印(common seal)を用いずにDeedとして締結することは可能です。他方、日本本社等、香港会社条例の適用対象外の外国法人が当事者となる場合には、Cap. 219第20条に基づき、当該法人の秘書役(company secretary)その他常任役員および取締役1名、または取締役2名の立会いの下での捺印(sealing)およびattestationにより、執行の適正性についての法律上の推定を得る方法が主に問題となります。いずれの方式によるべきかは契約当事者の設立地によって整理できますが、雇用契約特有の実務上の先例までは確認できておらず、個別に現地弁護士へ確認することを推奨します。実務上は、証拠上の明確性を確保する観点から、上述のごとく個人の署名についても立会人(witness)を付す運用が広く行われています。電子交易条例(Electronic Transactions Ordinance, Cap. 553)の適用除外(Schedule 1)は文言上不明確であり、電子署名による捺印証書の執行が香港の裁判所で有効性を認められるかは未だ判例上テストされておらず(untested)、この点の不確実性ゆえに、一般的に香港では捺印証書を電子署名により締結することは市場慣行(market practice)として定着していません**。実務上は、署名者本人が立会人(witness)の面前で書面に署名する伝統的な方式によることが標準的な取扱いとされています。
第七に、ガーデンリーブ条項の有無と、当該期間中の給与・福利厚生の継続支給の取扱いが明確に定められているか。
** もっとも、この慎重論は捺印証書(Deed)に固有のものである。Deedによらない通常の雇用契約書等の単純契約(simple contract)については、電子交易条例上の適用除外に該当せず、COVID-19以降、電子署名サービスを用いた締結が香港でも広く普及しており、両者を混同すべきではない。
「LegalOn」で契約書レビューを効率化
外国語で作成された契約書のレビューには、翻訳や条項の読み替えなど、負担の大きい作業が伴います。「LegalOn」なら、契約書を自動翻訳しながら論点やリスクをAIで抽出でき、信頼性の高い英文ひな形も豊富に参照できるため、こうした作業にかかる時間を大きく削減できます。
6. おわりに
香港の雇用契約は、雇用条例が定める最低基準さえ満たせば足りる部分と、競業避止・秘密保持という核心部分がコモンローとエクイティーの体系に完全に委ねられている部分とが併存しています。契約書の文言の精緻さ、そして締結のタイミングと方式(約因の有無・Deedの要否)が、そのまま執行可能性を直接左右するという香港法特有の構造を理解しておくことは、香港に拠点を持つ日本企業の法務担当者にとって実務上極めて重要です。日本本社が現地弁護士に契約書のレビューを依頼する際も、以上の観点を踏まえた質問を投げかけることで、より的確な助言を引き出すことができるでしょう。特に、既存従業員に対する条項の追加・強化を検討している場合には、単に条項の文言を確認するだけでなく、約因の有無、あるいはDeedによる締結の要否について、必ず現地弁護士に個別に確認することを強く推奨します。
(本記事は一般的な情報提供を目的としたものであり、個別の法的助言に代わるものではありません。具体的な対応にあたっては、現地法弁護士・専門家にご確認ください。)
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